書いた当初非常に反響をいただいた
あなご竹輪誕生物語↓
こちらはあなご竹輪が
誕生するまでの
紆余曲折を書いたもの
そして昨年9月に第1章をあげたのが
出野水産の歴史↓
今日は第1章では省いた
もう少し詳しいところを
第0.5章として
書いていこうと思いますよ
手前味噌な語り口なところも
あると思いますが
心意気ゆえとお許しください 😆
それではスタート!!
大正12年
出野しんたろうによって
草津の地で産声をあげた出野水産
屋号は「どてしん」
もともと出野しんたろうは
草津の魚屋で働いていました
大正時代ですから
冷蔵庫なども無い時代
どうしても余ってしまう魚や
魚を処理した後の
「あら」が残ります
その残った魚の「あら」を
もらって帰り「あら」に少しだけ
残っている身をこそぎ落とし
竹輪をつくって細々と
売り始めたのが
始まりと聞いています 💡
大正・明治と進んでいき
時は昭和に入って少したった時
当時のかまぼこに多いのですが
家族経営で家族が食べる分だけ稼ぐ
ほそぼそとしたところがほとんど
もちろん大掛かりな機械を
買うお金をもっていないところが
多かったので
〇〇さんのところは板かまぼこ専門
〇〇さんは竹輪専門
といった具合に
つくる商品を分け合っていたんです
当時の草津は 💡
なので出野は竹輪をつくるのが
得意だったので竹輪専門として
日々竹輪をつくっておりました
そして時は昭和へ移っていきます
毎日竹輪をつくり続け
細々と生活をしているのですが
なかなか子宝に
恵まれなかったのです
そこで当時は
ごく一般的に行われていた
兄弟の子どもを養子縁組で
迎えることになりました
そうしてまだ生まれたばかりの
小さな男の子が広島・草津の地へ
やってきたのです 💡
それが出野保(たもつ)
(語り部であるいずえりの祖父にあたります)
昭和6年の話
出野保は
すくすく育っていくのですが
それと並行して
世の中はどんどん昭和20年に
近づいていきます
材料となる塩や砂糖
そして魚も自由に買うことが出来ず
配給でまかなうしか
手立てが無くなりました
その危機を回避するため
各々のかまぼこ屋や竹輪屋や
揚げ半屋が一同に集まり
一つの合同会社のようなものが
つくられ耐えしのいでいたと
聞いています
もちろん出野のその合同会社の中で
竹輪をつくっておりました
一方その頃
保(たもつ)の伴侶となる昭子は
兵庫県は須磨の地で3姉妹の次女
として産声をあげます
大型船の船乗りだった父の元に
生まれたのですが
その父は年若くにして病死
母親の故郷のあった広島へ
引っ越してきます
病弱な母親だけでは
3人の食べ盛りの子を
養っていけないとのことで
次女であった昭子は
小学生の数年間を
石川にある親戚の和菓子屋さんで
過ごします
数年間を石川県で過ごした後は
広島に帰ってきて
看護学校へ通います
看護学校卒業後に勤めていたのが
広島は宮島の近くにあるとある病院
そこで出会ったのが
患者として入院していた
出野保だったわけです
保はこの30年後 56歳という若さで
他界をしますが若い頃から
病弱だったのですね
19歳という若さで
保と結婚した昭子は
トタン屋根の小さなかまぼこ屋へ
嫁ぐこととなります
若い時から
バイタリティー溢れる昭子が
嫁にきてくれることで
出野は大きく
変化していくこととなるのです
To be continued
練りものコンシェルジュ
「いずえり」こと出野恵梨でした